5月ももう半ばだというのに何故か雪の日の写真です。

ちょっと前に「1984年に函館に行った時の写真をスキャンしました」という記事を書きましたが、その時のネガが入ったファイルが出しっぱなしになっていまして、さすがに仕舞わなきゃと思ったのですが、その前に一番手前に入っていたネガからのスキャンです(笑)

時に1984年の2月ですが、日にちは不明。東京では珍しい本格的な雪景色です。

当時は中央線沿線の国分寺市に住んでいたのですが、写真は西国分寺駅を中心にその周辺での駅撮りです。

まずは西国分寺駅で撮った上りの165系。種別の表示が「急行」に見えます。この頃はまだ普通に急行列車が走っていました。

またまた165系です。種別はよくわかりません。「急行」の表示ではないような… ただ、なんか房総急行タイプのヘッドマークが付いているようにも見えます。

既に中央線の主力となっている201系。種別表示器が付く前の姿です。

こちらは日野駅。たぶん私が中央線で撮った最後の101系の写真ですが、後姿なのが残念なところ。高尾行きなのだから、待てばいずれ戻ってくるはずなのに撮ってないんだよなぁ(泣)

ここはどこでしょう? たぶん武蔵小金井駅だと思うのですが… 

最後は三鷹駅。向こうに見える総武線も201系ですね。

いずれ大した写真ではないですが、ちょっと懐かしい(笑) にしても、101系や103系を追い落とした201系も既に今はなく… 時の流れは速いものです。

今月の8日、最後の583系電車が最後の営業運転を終えました。

その時に583系の思い出話を書きましたが、今回は過去に撮った583系の写真です。と言ってもただの汚くて古い写真ですが…(笑)

まずは臨時特急「ふるさと」。東北新幹線の大宮暫定開業から上野開業までの間、他客時に新幹線の補完列車として上野〜青森間で運転されました。前の記事でも書きましたが、私が乗ったときはいつもガラガラでした。やっぱり一度新幹線に乗っちゃうと在来線特急では物足りなくなっちゃうんでしょうね。撮影時期は今ひとつ判らないのですが、昭和57年から59年の間だと思われます。

仙台駅で下り列車。

藤田駅〜貝田駅(だと思うのですが…)

東北新幹線開業前、上野駅にはたくさんの特急列車が行きかっていました。485系「白鳥」と並ぶ583系「みちのく」です。というのは冗談で、上野駅に着いた485系がヘッドマークの幕を回して「白鳥」が出た瞬間です。

上野駅を後に青森を目指す「はつかり」。

次は583系「ひばり」。485系のイメージが強い「ひばり」ですがゴーサントウ(昭和53年10月ダイヤ改正)前までは、583系の運用が1本だけありました。絵入りのヘッドマークはゴーサントウからですが、実際にはその少し前から使われ始めていました。と言うことで、この時期にだけ見れた583系「ひばり」の絵入りヘッドマークです。

上の写真の少し前の時期。赤い「ひばり」と青い「ひばり」。と言いつつ“色”が悪い(悲)

撮影時期は不明ですが、たぶん昭和52年ぐらいと思われます。仙台駅を後にする上りの「みちのく」です。現在、線路右手にある新幹線高架橋はまだその全容を見せていません。

最後は昭和51年の船岡駅〜大河原駅の一目千本桜を行く583系「ひばり」です。

古ぼけた写真で少しずつ遡ってみましたが、写真の出来はおいといて…その存在感、やっぱり名車でしたよね。

函館から青函連絡船の夜行便で青森駅に着いたのは午前4時00分。東北本線の上りの始発普通列車が6時27分発で、その間、何をやっていたのかは全く記憶にありませんが、50系客車のボックスシートで向かいの席に座ったおばさんと世間話をしてミカンをもらった記憶はあります(笑)

やってきたのは野辺地駅。南部縦貫鉄道のレールバスに乗ることが、この日の最初の目的です。

ところが、野辺地駅の端っこにある南部縦貫鉄道のホームに入ってきたのはキハ104。キハ101、102はレールバスですが、このキハ104は元国鉄のキハ10形。乗りたかったのはコレじゃな〜い。

という訳で、当初は終点の七戸駅まで行くつもりでしたが、ついつい最初の駅、西千曳駅で降りてしました。

西千曳駅です。風情がありすぎるこの駅は元東北本線の千曳駅。東北本線の移設とともに野辺地駅からの線路とともに南部縦貫鉄道に引き継がれました。
衝動的に降りてしまったものの次の上り列車がやってくるのは約3時間後。ものの見事に何もない西千曳駅で待つのはいささか辛い。ということで、たまたま通りかかった中学生に野辺地行きのバスの乗り場を聞いて、バスで野辺地に戻りましたが、相変わらずの計画性のなさです。それでも野辺地駅の跨線橋から上りの貨物と下り普通列車が撮れました。ED75の重連も50系客車も今となってはもう見ることはできません。

うだうだしている間に南部縦貫鉄道の列車が来る時間になったので、「どうせキハ104だろ」などと思いながらホームに入ってみると… レールバスだし(泣) 思うに朝イチのラッシュ時間帯のみ大型のキハ104を使って、後はレールバスだったんでしょうね。キハ10系とレールバス、両方乗れるチャンスだったのに… あ〜、失敗した。

思わず、このままこのレールバスに乗っちゃおうかと思ったのですが、それをやると野辺地駅に戻ってこられるのは13時36分。この後は下北半島に行く予定で、さすがにちよっと無理でした。

その後、このレールバスとはなかなかご縁がなく、次に訪れたのが平成3年9月28日でしたが、台風のため全線運休で乗れず。結局、乗ることが出来たのは南部縦貫鉄道休止、というか事実上の廃止の約2週間前、平成9年4月20日のことでした。

レールバスをあきらめて乗った大湊線はキハ22とキハユニ26の2両編成。キハユニの方に乗っていますが、合造車って好きなんですよね。なのに写真を撮ってない。なんでだ(泣) そんなこんなで反省点の多い旅行3日目です(笑)
とりあえず、大湊駅で撮った気動車。柱の陰がキハユニなんですが…
こっちは普通にキハ22です。

大湊駅まで行った列車はそのまま折り返し、一駅目の下北駅からそのまま大畑線に乗り入れていたようです。で、大畑駅まで行っているのですが、完全に記憶から消えていました。大畑線はこの次の年にバス会社だった下北交通(当時は下北バス)に転換されているのですが、その下北交通になってから乗ったのが最初だと思っていました。それはそれとして、駅舎の向こう側にいるのはキハユニ26です(笑)

この後は少し迷走していて、乗ってきた列車で大湊駅に戻っていますが、再び大畑線に乗り田名部駅へ。ここから国鉄バスで大湊駅前を通り、宇田というバス停まで乗っています。この宇田バス停ですが、今は存在していないようです。地名からすると現在の海上自衛隊前というバス停がそれっぽい気がします。

なぜ、このバス停で降りたかというと、この日の宿が当時の防衛庁の保養所でした。前々日の青森の宿を調べていたときに見つけたのですが、一般人も泊まれるということで、ついつい予約してしまいました。高台の宿で部屋の窓からは自衛隊の港が見えたような…気がします(笑)

翌日は宇田バス停から大湊駅とは逆方向、むつ脇野沢まで国鉄バスに乗っています。どうやら青森十和田ミニ周遊券の有効利用のようです。すなおに大湊駅から野辺地駅に行っていれば、前日乗り損ねたレールバスにも乗れたろうに、とも思いますが…

1時間ほどかけて着いた脇野沢は鄙びた漁村のたたずまい。沖には鯛島という名前どおりにタイの形をした島が浮かんでいました。

これで、全作戦終了。乗ってきたバスで大湊駅に戻り、大湊線で野辺地駅へ。そのまま特急「はつかり」で盛岡駅へ行き、東北新幹線に乗り換えて帰路についたのでした。

で、最後に、大湊駅を出た直後に撮った写真。小雨ではなはだ見づらいのですが、たぶん原子力船「むつ」だと思います。

函館駅からキハ40で大沼駅までやって来ました。駅から南方向へ移動して小沼の湖畔で撮ります。「北海道に梅雨は無し」ということで、せっかく晴れてくれたのにネガの調子はなかなか厳しい状況。プリントが残っていた写真からのスキャンもあわせてご覧いただければ… 

 


小沼は見えません。駒ケ岳は木々の上にチラリと(笑) キハ80系の特急「北斗2号」。

山線経由で札幌へ行く特急「北海3号」。

後追いで… プリントからのスキャン版。色はこっちがキレイです。

DD51牽引の貨物列車。

新鋭(と言っても登場から5年ぐらいは過ぎてますが…)キハ183系の上り特急「北斗4号」。

14系の上り急行「ニセコ」なんですが、貨物列車とかぶって後追いだけ…

この後、大沼公園駅の北側のポイントまで3.5劼曚錨綿皸榮亜

今年の2月に行ったときに白鳥と一緒に撮ったポイントですが、ここもネガはあきらめてプリント版です。

 

特急「北斗5号」

 


急行「ニセコ」

下り普通列車はキハ22です。
この頃はまだ客車の普通列車も運転されていたのですが、残念ながら撮ってもいなければ見た記憶も無し。まだ旧型客車だったのか既に51形になっていたのか、今更言ってもなんですが、なんか気になります(笑)

大沼公園駅まで戻る途中、下りの貨物列車と行き会いました。

函館駅に着いたのは18時過ぎ。この駅舎、懐かしいです。

最後はお約束の函館山の夜景です。

この後は青函連絡船の夜行便で青森に戻ります。船は貨物船からの改造船「石狩丸」でした。津軽丸型のように美しい船ではありませんでしたが“バランス感の悪さ”がなんか好きな船でした。

ということで、ここまで来たので翌日に続きます(笑)

前回の続きです。

三厩駅から青森駅に戻ってきましたが、青森駅着は16時36分。青森港で青函連絡船を撮っていますが、時刻表を見ると撮れるのは18時55分着の1本だけ。この季節じゃないと撮れませんね。なんにしても国鉄の青函連絡船を港でちゃんと撮ったのはこの時だけです。

ただ、ネガの状態は前回の20系なんかと比べてもずいぶん悪いです。

青森港に入ってきたのは、函館で記念館として保存されている「摩周丸」です。

左手からタグボート「たっぴ丸」が近づいてきます。

大きな連絡船をタグボートが岸壁に押し付けていきます。小さいけどちゃんと国鉄のJNRマーク付きです。

この日はこれで終了、駅近くのビジネスホテルに投宿です。

翌日は早起きして5時25分発の函館行きの青函連絡船に乗ります。船は前日撮影した「摩周丸」でしたが、船内はガラガラ。乗船率は10%程度で、連絡船の凋落を実感せざるを得ない状況でした。

とはいえ、船旅もいいもんです。

途中、まだ陸奥湾の中ですが、青森行きの連絡線とすれ違いました。光の中を行く上りの連絡船。とりあえず早起きをした甲斐がありましたが、この写真だと朝日というよりはなんだか月の光のようにも見えますね。

津軽海峡では2度ほどイルカの群れと出会いました。

函館山が近づいてきました。

函館でも小さなタグボートが連絡船の接岸をサポート。

青森から3時間50分で函館に到着。隣の桟橋ではコンテナ車の積み込み作業中。大きな船体に次々と飲み込まれていきます。

次はいよいよ大沼駅まで行って函館本線の特急列車を狙いますが、次の下り列車の発車時刻まで約30分。その間に駅前で市電をちょっと撮影しました。

500形が普通に走っていますが、両方とも行先は「環状線」。現在の路線では環状はもちろん無理ですが、この頃は東雲線(宝来町〜松風町)やガス会社前を通る路線(路線名はわかりませんが…)もありましたので、ここをぐるっと走っていたみたいです(起点・終点は駒場車庫前?)。
この写真はプリントが残っていたのでこちらをスキャンしました。ネガよりはマシな状態です。

この後は函館本線の普通列車で大沼駅へ向かいます。

2月に函館に近い大沼駅・大沼公園駅付近で小沼や駒ケ岳をバックに函館本線の列車を撮ってきたのですが、今を遡ること30年以上前にもほぼ同じ場所で撮ったことがありました。

ちょっと懐かしくなって昔のネガを引っ張り出してみたのですが… ネガの状態はかなり悪いです。なんか真ん中あたりが緑がかって変色しているもの多数。一本のネガの中でも比較的よいコマととてつもなく悪いコマがあったりしてよくわかりませんが、だましだましスキャンしてレタッチしてみました。まぁ、とりあえず「懐かしい」以外の意味はありませんが、UPしてみます。
 
行ったのは昭和59年6月。例によって素直には行っていません。というか、当時のメモによると函館に渡ったこと自体が予定外だったようで、当初は青森県を主目的地とした3泊4日の旅だったようです。切符も青森十和田ミニ周遊券を使っています。

最初は、昭和59年に大沼あたりで撮った写真メインの記事のつもりだったのですが、旅行のメモや当時の時刻表なんかを見ていたらいよいよ懐かしくなってしまいました。

ということで、まずは旅行1日目の青森までを書きます。
 
上野駅から秋田駅までは夜行急行「おが」(その頃は東京に住んでいました)。車両は既に第一線を退き、主に急行列車で使用されていた20系客車。とはいっても寝台車には乗れず座席車の自由席です。自由席車は5両で、1〜3号車はナロネ21から改造されたナハ21、4・5号車は寝台車のナハネ20が座席車の代用として使用されていました。夜行でのるならゆったり過ごせそうなナハネ20に乗りたいところですが、考えることは皆同じで気づいた時には既に満席でした。止む無くナハ21の座席を確保。

20系客車は何回か乗っていますが、20系の座席車に乗ったのはこの時だけです。できれば車内の写真も撮っていて欲しかったところ。で、乗り心地ですが、ボックスシートのシートピッチが広すぎて前の席に足を乗せるとかえって疲れてよく眠れなかったとメモにあります。

上野駅を出たときはそこそこの乗車率でしたが、福島駅あたりから空きだし横手駅からはガラガラになったので、ゆったり足が伸ばせるナハネ20に移ろうと行ってみると、確かに車内は空いてはいたのですが、寝台には前のお客さんの湿気がこもってちょっと耐えられない状況。とっととナハ21に戻りました。

というのが、かろうじて残っている急行「おが」の思い出です(笑)

下車した秋田駅での撮影。電源車のテールサインは「急行」とシンプル。

秋田で機関車を付け替えこの後は男鹿線の男鹿駅まで行きます。向こう側に停まっているのは24系を使った特急「出羽」ですが、なぜ20系のこちら側のドアも開いているのかは不明です。

ディーゼル機関車が来るまで切妻のナハネフ23の顔が見えます。ヘルメットに座り込んだおニイさんが待機中です。

DD51を連結。

男鹿駅を目指し走り去っていきました。老いたりとはいえ、さすがの風格です。というか、男鹿線で寒風山をバックに走る20系も撮りたかったなぁ〜、と今更ながら思います。

20系急行「おが」を見送った後は、後続でやってきた14系の急行「津軽」で青森に向かいます。秋田駅ではかなり混んでいたようですが大館駅あたりからガラガラになったとメモにあります。なんも覚えてないですけど…(笑)

とりあえず青森駅で急行「津軽」も撮っておきます。寝台車もつないでいたはずですが見えませんね。

青森駅からは津軽線で三厩駅まで行きました。キハ22の3連ですがこの頃はもうタラコ一色ですね。

この日の予定は青森駅に戻り東北本線で野辺地駅まで行って、大湊線で終点の大湊駅まで行き、むつ市内の下北YHに泊まるつもりで三厩駅前から予約の電話を入れたようなのですが、なんと閉鎖されていました。

だからちゃんと調べてからにしなさいといつも言ってるでしょ、と言いたいところですが、この頃は事前に宿の予約をとるなんて皆無。基本、出たとこ勝負の旅ばかりでした(笑)

で、この時も函館に渡ることを決めたのはこの時点だったようです。とりあえず駅前の本屋さんで宿を探して青森駅近くのビジネスホテルを予約したことになっていますが、三厩駅前に本屋さんなんてあったんでしょうか? ストリートビューで見る限りそんな雰囲気はないですね。ちょっと謎です。

結局、三厩駅周辺で何を見るでもなく青森行きのキハ22に乗り込みます。

途中見かけた工事現場。「津軽海峡線第1二股高架橋他工事」となっています。もしかしたら津軽二俣駅付近でしょうか? ということはこの構造物は今の北海道新幹線「奥津軽いまべつ駅」かも… まぁ、わかりませんけど…

青森駅に戻ってきました。583系「はつかり」と奥の方に青函連絡船、煙突の色からして「羊蹄丸」だと思われます。

という訳で、次回は青函連絡船です。

昨年の7月ごろ「ちょっと前の鉄道写真」ということで津軽地方の旅について3回に分けて書きました。ただ、書いた時には当時のメモが見つからずネガと記憶が頼りの記事だったのですが、ブログにアップして間もなくメモが見つかりました。

 

改めて見てみると、…ん〜、あちこちに結構な記憶違い。このままでは、ちょっとなぁ〜というとで一度削除し、訂正版を載せるつもりだったのですが、そのまま忘れ去られていました。とはいいつつ、せっかくスキャンしたのに少しばかりもったいない。

 

で、3本の記事を一つにまとめて、メモを基にいろいろと検証してみました。まぁ、アホだなぁ〜とみていただければ幸いです(笑)

 

では、ここから本文。まずは1回目の投稿分です。

 

以前読んだ宮脇俊三さんの本の中に、ご夫婦でJR東日本の豪華寝台車「夢空間」に乗ったその日に湾岸戦争が勃発し、「こんな日に戦争を始めなくても…」とこぼされるシーンがあったのですが、私も似たような経験があります。
 
宮脇俊三さんの場合は平成3年1月17日のことでしたが、私はその1ヶ月ちょっと後となる2月14日でした。
 
その日、品川発の夜行バス「ノクターン号」でやって来たのは青森県の弘前駅。そして駅の待合室のテレビから流れてきた2つのニュース。
 
1つ目は東名高速道路(だったかな?)での夜行の高速バスの事故。乗客の中に亡くなった方もいらしたということで、同じ夜行高速バスでやって来た身にはそれも十分に衝撃的でしたが、もう1つのニュースが、湾岸戦争でとうとう地上戦が始まったというものでした。
 
1月17日の湾岸戦争勃発後、多国籍軍の航空機や巡航ミサイルによる一方的な攻撃が続いていましたが、イラクもイスラエルに対するミサイル攻撃を行い、やはり次は地上戦に突入するのか? という状況ではありましたが、いざ本当に始まってみると、このまま長期戦になるのだろうか? これまでのアウトレンジの攻撃とは違い(というか、やられる方はたまったもんじゃありませんが…)、地上戦ともなると多国籍軍側にもそれ相応の戦死者もでて、お互いにいよいよ抜き差しならない事態になるのではないか、さらに場所が場所だけに日本経済にも大きな影響が出るだろうか、とか、それなりにいろいろと考えてしまいます。
 
「こんな日に始めなくたって…」
と、弘前駅の待合室でやはり思ってしまいました。

 
といっても、いつまでも待合室でテレビを見てるわけにもいかないので、いつも持ち歩いているラジオで戦争の実況中継を聴きながら、奥羽本線で川部駅に移動。弘南鉄道の黒石線に乗りにいきます。
 
ここで最初の、かつ重大な間違い。この2つのニュースに接するのはもう少し後のことです。この時点ではまだ発生していません。

というわけで、改めて今回の古い鉄道写真は、平成3年2月の弘南鉄道です。
 
かつては国鉄線だった黒石線は、昭和56年に第1次特定地方交通線に指定されますが、(多分)唯一の既存私鉄へ転換路線として、昭和59年に弘南鉄道に移管されました。
 
弘南鉄道となっても非電化のままだったので、車両はJRから引き継いだキハ22がベージュとエンジの(ちょっと違うかも…)の渋い弘南カラーをまとい走っていました。
 
この色は元々好きでしたが、キハ22にもなかなか似合います。
 
▼前田屋敷付近(と思われます)H3.3.24
2月の津軽ということで周辺は真っ白です。

この場所は晴れていればバックに岩木山が入るのですが、この天気ではどうにもなりません。
 
終点の黒石駅は国鉄だったころは弘南鉄道の黒石駅とはちょっと離れたところにありましたが、黒石線の転換時に弘南鉄道の黒石駅に移転統合されました。その黒石駅で弘南線に乗り継ぎます。
 
弘南鉄道は国鉄や首都圏の大手私鉄のお古、さらには元阪和電鉄など、由緒ある?旧型電車がたむろする(趣味的には)実に魅力ある鉄道だったのですが、なかな訪れる機会がなく、初めて来たこの頃は、東急から来たステンレスの7000系の運用も始まっており、既に元阪和のクハ20形など多くの旧型電車が一線を退いた後だったのは残念なことでした。て、いうか、それ以前に一度、行こうとしたのですが、元阪和が3両編成の中間に入ったという記事を何かで見て、「それじゃ行ってもしょうがねぇよなぁ〜」と、止めちゃったんですよね。あ〜、アホだ(泣)
 
それはともかく、この時、動いていた旧型電車は元東急の3600系2編成でしたが、日中帯は3600系と7000系が交互に走っていたように記憶しています。
 
▼弘南黒石駅H3.3.24
渋すぎる側面
 

 

 

▼田舎館駅H3.3.24

隣にステンレスの7000系
 


雪の中での撮影ですが、耳は戦争の中継に集中。といっても戦局に関する直接的な情報は少なく、解説的な話が大半だったように思います。しかも出てくる地名には全くなじみもなく、ただただ緊張感だけを感じていたような気がします。しかも時折り吹雪いてひたすら寒いし…

 

湾岸戦争の地上戦が始まったというニュースはこのあたりで初めて聞いたようです。この頃は普通にラジオをもって歩いていました。
 

 

▼柏農高校前〜津軽尾上H3.3.24

▼柏農高校前〜津軽尾上?H3.3.24
一応、7000系も撮っていました。ネガの前後のコマからみて柏農高校前〜津軽尾上だと思うのですが、Googleの地図で見ても場所が特定できません。
 

▼柏農高校前〜津軽尾上H3.3.24

この後は、弘前駅に3時ぐらいまでに戻り、次の目的地、五所川原へ向かいました。というか、今考えれば、むしろこの時に大鰐線も乗っとくべきだったかなぁ。

 

弘前駅に戻ったのはお昼過ぎでした。思ったよりも早いです。

 

ちなみにラジオから聞こえてくる戦争の方は、よく判らながらも多国籍軍優勢ということで推移しているようでした。というか、結果的には長期戦どころか地上戦の開始からわずか数日で暫定停戦協定が結ばれました。まぁ、その後が長かったし、今なお、あらゆるところでその影響が続いているのですが…

 

この先は2回目の投稿分になります。

 

前回の続きです。

 

遠い中東で戦争が始まった日(正しくは「地上戦が始まった日」)、私は一人、雪の津軽で弘南鉄道を撮っていたわけですが、寒いしお腹は空くしで、午後3時ぐらいには弘前に撤収。

 

くどいようですが、弘前にはお昼過ぎに着いています。お昼は780円のかつ丼セットを食べたことになっていますが、記憶はないです。ただ、メモには予想とは違う味だったと書いてあります。おいしかったのかどうかは定かではないのですが… 

 

朝、湾岸戦争のテレビを見たという記憶は、実際にはこの頃の事だったと思われます。

 

今にして思えば大鰐線に行っておくべきでしたが、中央弘前駅までちょっと遠いのと少し疲れたこともあって、その日の宿泊地の五所川原に移動しました。

 

その時、五所川原駅で何枚か撮っていましたので、こちらもご紹介します。

 

▼下りの「ノスタルジックビュートレイン」

 

ノスタルジックビュートレインは、この前年の平成2年に登場した五能線の観光列車です。50系客車の改造車で、最後部の展望室が特徴でした。

 

▼津軽鉄道のラッセル車

このタイプのラッセル車は、今は弘南鉄道に残るのみですが、この時は津軽鉄道のこの車両もバリバリの現役でした。

 

▼ストーブ列車

津軽鉄道の冬の看板列車です。が、わずか1両の客車はいささか寂しい。そして真っ赤な客車はちょっと…ヤダ(笑)

 

 

 

 

このネガはここでおしまい。で、次のネガの先頭に写っていたのはコレ。

 

▼キハ100(奥羽本線・横手駅)

当時は最新鋭だったキハ100系です。登場時はこんな感じのブラックフェイスでした。初めて見た時はそこそこの違和感がありましたが、今改めて見るとなかなか締まってよい顔だったように思えます。

 

…なんですが、それはそれとして、224日夕方の五所川原駅から横手駅のキハ100系気動車まで、流れ的にいささか唐突感があります。五所川原から横手まで何も撮らない訳はない。ということでしばし考えてようやく思い出しました。

 

24日は五所川原に宿泊し、翌日は津軽鉄道で金木まで往復。その後は五能線でノスタルジックビュートレインに乗っています。そして、津軽鉄道は少し気合を入れてポジフィルムを使ったのでネガのファイルには入っていない、ということのようです。

 

う〜ん、スライドにして保存してあるはずだけど・・・ どこに行ったかな〜? 週末に探してみよ。

 

記事の通り、弘前から五所川原に移動していますがそのまま宿泊ではなく、その日のうちに五所川原駅から津軽鉄道で金木駅まで行っていました。

 

この先は3回目の投稿分となります。

 

少々時間が経ってしまいましたが、前々回の続き、平成3年の津軽への旅です。
 
この時のスライドは無事に発見しました(笑)
 
まずは朝イチで、五所川原から津軽鉄道で金木まで行き、その周辺で撮影。
 
というわけで、朝イチではなく、弘南鉄道に乗ったその日の午後です。
 
▼金木駅〜嘉瀬駅
弘南鉄道と同様にJRから来たキハ22が雪の中、鉄橋を行きます。

 

元国鉄の除雪車キ100もやってきました。このタイプの黒いラッセル車が動いているのを見たのはこれが最初で最後。できればもう少しよい角度で見たかったところです。
 
この日の写真はここで終わり。この後、五所川原に戻り駅近くのビジネスホテルに宿泊しています。ちなみに夕食はモスバーガー。なんでここまで来てモスなんだと、メモの中で愚痴っています(笑)
 
▼撮影場所不明
ストーブ列車です。前日見たのとは違い2両編成で、落ち着いた津鉄色がうれしいところ。にしてもここはどこでしょう? 雰囲気的に金木駅ではなさそうです。後ろに見えるスノーシェッドらしき物がヒントかも… ということで、Googleの航空写真でみてみたら津軽飯詰駅に似たのがありますね。ここかな?
 
この写真は翌日の午前中。それこそ朝イチで出かけて下りのストーブ列車を撮るつもりだったのに寝坊して思ったところで撮れなかったようです。この写真はやはり津軽飯詰駅で撮った上りのストーブ列車でした。この列車に乗って五所川原駅に戻っています。
 
ちなみに高速バスの事故があったのはこの日の朝でした。朝の五所川原駅のテレビで見ていました。
 
▼五所川原駅
凍てついたキハ22
 
五所川原に戻り、続いてノスタルジックビュートレインで東能代へ向かいます。前回もちょっと書きましたが、平成2年に登場した50系の改造車両を使用した観光列車で、今のリゾートしらかみの前身にあたる列車です。当時は1日2往復運転されていました。
 
列車は専用のDE10牽引の3両編成で、うち2両は自由席で外観は展望車と共通の塗装に塗り直されていましたが車内は従来と同じだったように記憶しています。一方の展望車は最後尾の展望室の他、側窓も拡大されるなど気合いの入った改造が行われ、車内もそこそこ豪華な造りとなっていました。
 
乗ったのは午後の便の展望車でしたが、残念ながら車内は空いていました。それでも車内販売の方がいて、丸ごとのりんごが付いたお弁当を買い、冬の日本海を堪能しながら、おいしくいただいた記憶があります。
 
この弁当の名前は「まいたけ風味ネハァー弁当」。鶏の炊き込みご飯とフキ、舞茸、厚焼き玉子、胡瓜の味噌漬け、さらに別の小箱に鮭の和風マリネ?、そしてリンゴとなかなか詳しくメモっています。本当においしかったようです。ちなみにお値段は1000円でした。当時の感覚だと少し高めかな?
 
▼深浦駅でノスタルジックビュートレイン同士が行き違い
後方の展望室は入ることができましたが、寒さ避けに張られたビニール?が凍りついて何も見えませんでした。って、これでも十分に寒いし…
 
ちなみに展望車は必ず編成の後ろに付けるため、終着駅に着くたびにターンテーブルで廻していたように記憶しているのですが… どうでしたっけ?
 
▼冬の日本海
寒々とした絶景です。
この後は東能代駅から奥羽本線で鷹巣駅へ行き、秋田内陸鉄道の急行「もりよし」号で角館駅へという予定だったのですが、写真を見ているうちに思い出しました。
 
ノスタルジックビュートレインは東能代駅の手前、能代駅で大雪のため足止め。全く動かなくなってしまいました。このままでは「もりよし」号に間に合わない。
 
ノスタルジックビュートレインについてはだいたい合っていましたが、ここは間違い。東能代駅までは行きましたが、この先、奥羽本線のダイヤが乱れまくって東能代駅で足止めでした。乗り換えるはずだった奥羽本線の下り普通列車は秋田駅から出れない状態。ただ特急は来るというので待っていたけど一向に来ず、ついには東能代駅で運転打ち切りと、どうにもならない状況でした。
 
で、気づいたのが駅前のバス停。時刻表を見たら間もなく鷹巣駅前を通るバスが来るという絶妙なタイミング。列車に荷物を取りに戻り、あわててバス停へ。
 
バスについては駅員に聞いたみたいで、その後、バス会社に電話して状況を聞くもののかなり混乱したやりとりがそのままメモに残っていました。
 
ちょうどやって来たバスは雪道を快調に走り、鷹巣駅前バス停に到着。ギリ間に合ったかと下車したら、そのバスは鷹巣駅へ直行。降りなきゃ鷹巣駅にそのまま行けたじゃん、ぼやきつつ雪道を走りました、というしょうもない思い出です(笑)
 
ここも微妙に違う。快調に走っていたのは二ツ井駅付近までで、この後は旧道に入り集落ごとにこまめに停まり結構イライラしていたみたいです。さらに鷹ノ巣駅前付近はだいぶ違っていて、駅近くの松葉というバス停を過ぎ次ぐらいかと思ったら駅前の通りを逆に曲がり、駅とは逆の方向へ。次の鷹巣営業所前で下車し駅まで走ったと書いてありました。結局、「走った」というところは同じですが…(笑)
 
▼秋田内陸鉄道 急行「もりよし」号 鷹巣駅
乗務員さんが車両の雪を落としてます。女性の姿も見えますが、秋田内陸鉄道は女性車掌、そして女性運転手のハシリの鉄道でした。
 
▼AN8800型とのすれ違い

かくして予定通り、角館に到着。この日は横手まで行って駅前のビジネスホテルに宿泊。翌日はキハ100系で北上線で北上に抜け、仙台の実家に寄ってから東京に戻ったはずですが、北上駅でお目当ての駅弁を買い損ねたのが記憶に残っています。けど、何の駅弁だったかな〜?
 
秋田内陸線は途中、レールも見えない状況で走っていたようですが、角館には定刻に到着しています。が、ここからまたいろいろと間違いがありました。まず、泊まったのは横手ではなく大曲。そして仙台の実家に寄ってから東京に戻ったのは合ってましたが、経由地は北上ではなく新庄でした。大曲から普通列車2本(40系気動車と50系客車)を乗り継ぎ新庄へ行き、そこから仙山線へ直通する快速仙山5号で仙台へ向かっていました。現在では直通不可能なルートで、なかなか貴重な体験でした(全く覚えてなかったけど…)
 
北上駅の駅弁については、別の記憶とごっちゃになってるんでしょうね。
 
以上、四半世紀前のこととはいえ、記憶なんていい加減なものです、というお話でした(爆) 

前回の続きです。

紀州鉄道に乗った翌日は有田鉄道に乗ってきました。

有田鉄道は、先日、石油工場での大規模な火災が発生した有田市の南隣、有田川町の紀勢本線藤並駅から東へ5.6km、金屋口駅まで伸びる小さな私鉄でした。といっても前日に訪れた紀州鉄道の倍はありますけど…(笑)

ただ、紀州鉄道は未だに生き残っていますが、有田鉄道は訪れた5年後の2002年に廃止されてしまいました。

廃止直前には1日の運転本数がわずか2往復という状態でしたが、行った時は午前中に4往復、午後に1往復で合計5往復。2往復という数字を見た後は「意外と多い」という気もしますが、学校が休みとなる日はバスに振り替えだったようで、実質、高校生の輸送のためだけに延命していたという感じなのでしょう。

訪れた日は月曜日でしたが、恐らくこの旅行のスケジュールのキモは、この有田鉄道だったと思われます。

乗ったのは、藤並駅からの2番列車となる8時8分発(1番に乗ろうとしたのに御坊で寝坊した気がする…イヤ、洒落じゃなくて…)。車両は数年前に樽見鉄道から来たレールバス「ハイモ180」でした。当時のメモを見ると、通学時間帯で、かつ小さなレールバスということもあるのでしょうが、車内は高校生でなかなかの盛況だったようです。

もっとも2駅目の下津野駅で全員降りてしまい、その後は終点の金屋口駅まで空っぽのレールバスで行きました。下津野駅のそばには有田中央高校がありますのでここの生徒たちだったのでしょう。

金屋口駅に到着後、当初予定では次の1往復をどこか近くで撮るつもりだったのですが、当日は前日から続くあいにくの雨。それもそこそこの雨脚で、走っているのもレールバス。これで富士急から来た両運転台のキハ58003が動いていたら多少無理をしても撮ったと思うのですが…

結局、駅に停まっているレールバスを撮って次の藤並行きで戻ることにしました。
キハ58003は車庫の中にいました。この写真だと両運転台かどうかはわかりませんが…
殺風景な金屋口駅ですが、構内には手書きの運賃表といっしょにレポート用紙に手書きされた沿線案内が貼られていました。更にポエムらしきものも… 残念ながら余命いくばくもない小さな鉄道でしたが、大切に思っている人が確実にいたのだなぁ、と今更のように思います。

前々回、紀州鉄道キハ603の鉄コレについて書きましたが、今回は実物に乗った時のことを書きます。

乗ったのは平成9年6月。そんな昔のことだとは思ってなかったのですが、もう20年も前になるんですね。

当時は盛岡に住んでいて、東北新幹線と上越新幹線を乗り継ぎ、越後湯沢から北越急行の特急「はくたか」に乗り直江津、信越本線で長野へ行き、翌日、「しなの」「南紀」「オーシャンアロー」と3本の特急を乗り継いで紀勢本線の御坊駅にやって来ました。

こんななかなかのルートで来たので御坊に着いたのは既に15時過ぎ。まぁ、日の長い時期ですし、なにしろ路線が短いので、あっという間に乗りつぶしができて、そこそこ楽しむことができます。

延長2.7劼竜州鉄道は当時、日本一短い鉄道でした。現在は千葉県の芝山鉄道(2.2)ですが、芝山は全列車が京成電鉄へと直通しているため、実質的には今でも紀州鉄道が日本最短の鉄道かもしれませんね。

ともかくオーシャンアローを降りると紀州鉄道に乗り換え。すぐの発車だったように思います。御坊駅を出るとしばらくは農地も目立ちますが、学門駅ぐらいからは古い住宅街という感じで、どうということのない車窓が続くなか、御坊駅を出てからわずかに8分で終点の西御坊駅に到着しちゃいます。

結局どこで撮ったらよいかもわからず、時間もないし天気もいまいちだし(梅雨時ですからしょうがないですが)、西御坊駅界隈で軽く撮ります。

▼西御坊駅から御坊駅方面を望む。
西御坊駅からはさらに日高川駅まで0.7劼寮路が伸びていましたが、乗りに行った8年ほど前に廃止になってしまいました。西御坊駅から先へとまだレールが伸びていました(今もあるようです)。

▼手前が旧日高川駅方面になります。

▼キハ603の御坊駅側 車両番号のペンキが垂れてます。

このあと紀伊御坊駅に移動。ここはなかなか立派な駅舎があります。

▼駅の端にキハ605がいました。

岡山臨海鉄道から来たこの車両は紀州鉄道では一度も営業運転されたことがなかったそうです。廃車後は有田鉄道の金屋口駅跡にある有田川町鉄道公園に保管されていましたが、今は伏木ヤードというところで復元作業をされているとのこと… 状況がよくわかりません。きれいになった姿を見てみたいものですが… と、いろいろネットで見ていたらジェイアール貨物・北陸ロジスティクスという会社からきれいな姿で販売されていました。販売価格は「お問い合わせください」とのことです(笑)

何はともあれ、雨は強くなるし暗くなるしで御坊駅に引き上げます。

▼走行中の車内。白熱灯の明かりがいい感じ。

▼御坊駅に着きました。バス窓越しに阪和色の113系。

▼御坊駅の0番ホーム。1番線に到着したのは元急行用の165系。

紀州鉄道の写真はこれでおしまい。この日は御坊に泊まって、翌日、有田鉄道に乗って、そのあと南海や大阪の地下鉄の未乗区間をいくつかやっつけて、伊丹空港から飛行機で引き上げたのでした。てか、有田鉄道ぐらいまではそれなりにメモが残っていたのですが、その先がいい加減で詳細がわからない… 困ったもんだ。

どうもこのところ飛行機ネタが続いています。なんか鉄道ネタを、ということで例によって古いネガを見ていたら、街中を行く南海電車の写真が出てきました。
 
しかも単行! なんだっけ、これ?
 
どうやら南海電鉄の天王寺支線のようです。
 
そ〜いえば乗ったことありました。ネガのメモによると乗ったのは平成2年1月。天王寺支線は、南海の天下茶屋駅から国鉄天王寺駅を結ぶ2.4kmの短い路線でしたが、訪れた時は地下鉄堺筋線の天下茶屋駅への延伸工事の影響で、天下茶屋駅から今池町駅間が廃止され(現在はこの下を地下鉄が走っています)、今池町駅から天王寺駅までわずか1.3kmの孤立路線となっていました。
 
この時の記憶はかなりあいまいだったのですが、前後のネガを見ているうちに少し記憶がよみがえって来ました。
 
天王寺支線に乗った前日は同じ南海の高野線に乗っていました。おそらく和歌山線の橋本駅で乗り換え、30000系の特急「こうや」や21000系ズームカーの急行等を撮りながら高野線の終点極楽橋駅まで乗っているようです。

ということで、まずは高野線から…

 
▼21000系ズームカー[場所不明] H2.1.27

▼30000系特急「こうや」[場所不明] H2.1.27

▼22000系角ズームカー[極楽橋駅] H2.1.27

この赤い橋が極楽橋でしょうか?

▼21000系ズームカー[極楽橋駅〜紀伊神谷駅] H2.1.27
結構、山深いです。
 
何故か、一駅戻り紀伊神谷駅でも撮っていました。
 
▼21000系ズームカー[紀伊神谷駅] H2.1.27

▼30000系特急「こうや」と21000系ズームカー[紀伊神谷駅] H2.1.27

この後は極楽橋駅に戻り、ケーブルカーで山に上り高野山をお参りしています。さらにバスで奥の院まで行ったのですが、ロケットを模した新明和工業の慰霊碑があってびっくりしたのを思い出しました。
 
翌朝、大阪市内のビジネスホテルから歩いて天王寺駅に向かう途中に四天王寺を見つけて参拝。その後、天王寺駅前から住吉まで阪堺電車に乗り、住吉大社もお参りと、我ながらなかなか信心深いことです(笑)
 
▼阪堺電車[住吉〜住吉鳥居前] H2.1.28
大阪市電1601型60年記念の臨時電車です。たまたまやって来たところを撮影しました。
 
住吉周辺で阪堺電車を撮影し、その後は天王寺支線に乗りに行きます。そのまま阪堺電車で恵美須町行きに乗り今池乗換えが簡単なのですが、ネガには南海本線の住吉大社駅の高架ホームから住吉大社を撮った写真があったので、どうやら住吉大社駅から萩ノ茶屋駅まで行き、徒歩で今池町駅へ行ったようです。
 
当時は萩ノ茶屋駅が今池町駅への乗換駅になっており、切符も通しで買うことができたので、阪堺電車で行くよりは安かったのだと思います。まぁ、この辺の治安についてもよく知りませんでしたし…
 
南海本線の電車に乗ったら、萩ノ茶屋駅が無い!とか慌てつつも(覚えてないけど、多分そうだったのではないかと…(笑))、仏の加護?もあって無事に今宮町駅に到着。今宮町付近で撮影したのですが、大都市の中を走る大手私鉄の電車が単行だったことに驚きでした。
 
▼1521系[今宮町駅〜飛田本通駅] H2.1.28

▼今宮町駅 H2.1.28

今宮町駅や1521系の車内については、あまり記憶がありませんが、終点の天王寺駅は薄暗い工事現場のような駅で、妙に印象に残っています。今は天王寺駅の駅ビル「天王寺MIO」となっている場所で、駅ビルの工事の真っ最中だったのかもしれません。
 
▼天王寺駅 H2.1.28

天王寺支線の沿線についての記憶はほとんどありませんが、改めてGoogleの航空写真で見ると線路跡がくっきりと残っているのがわかります。先にご紹介した長野電鉄河東線や京福電鉄の永平寺線もそうでしたが、鉄道の跡ってなかなかしぶといですね(単に再利用しづらいだけなのでしょうが…)。
 
というわけで、今回はここまでです。


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